2013年1月15日火曜日

歩み続けるための歩み方

昨年の10月あたりから、僕は自分の生活を改めて見直す必要があった。加えて毎週金曜日、片道約40分、地下鉄で往復540円掛けて「通う」ことへの違和感も生じ始めた為、長らく官邸前抗議に足を運んでいない。毎週の様に抗議に足を運んでいたあの頃は、言葉では否定していたが、「怒り」に変わる確かな「情熱」をもっていたのだと思う。自分が足を運んでどうにかなろうものなら何が何でも足を運ぶ、そんな気概だった。

予断を許さない状況は原発がある限り変わらないし、それに伴う「原発即廃炉」の個人的な姿勢も揺らいでいない。ただ、この自民党政権下では、民主党政権が右往左往していた昨年とは状況が異なる。昨年の春から夏に掛けては、抗議自体に世の中へのアピール力と政治への抑止力が確かに備わっていた、様に思う。毎週の様に抗議に足を運ぶに連れ、規模が膨れ上がり、過度期にはメディアがこぞってその様子を伝え始め、政治家も無視出来なくなり、実際に様々な政治決定も揺らいだ。だから何が何でも抗議に行く、その意義を見出すことも出来た。そんな人が多かったのだろう。その影響として、現時点では規制委員は独立したものとして、とりあえずは正しく機能しているのではないだろうか。ただ現状は、もう無闇に抗議に足を運んでどうにか出来る状況では無いのだと個人的に判断している。

あの抗議に足を運ぶ過程では、情熱に駆られる中で勘違いを起こした瞬間もあったと認めたい。特に多くの人が集まって欲しいと願う余り、デモや抗議に足を運ばない人々の神経を理由も知らずに疑ったり、個人的にはPUNKSと呼ばれる人たちがあまり見当たらない状況を嘆いたりと、独善的としか言い様が無い感情にすり替わっていた瞬間もある。情熱の裏で、誰かを突き放していたかもしれない。これこそが大衆運動の落とし穴なのだと今では猛省している。

今も続く『官邸前抗議』に対して、自分の中での位置付けは変わった。個人の意識の集合体を築くべき受け皿が、過度期を終えても尚継続して機能していることを忘れずに、その事実に意義を見出していきたい。だから本当に「生活の延長」としてタイミングが重なったその時には、僕もまたあの抗議へと向かうつもりだ。金曜日の夜に、都内に別の目的がある「ついで」に寄るとか。

一方で再び国会包囲網や不定期の市民的なデモがあれば、強制の無い形で告知を拡散したり、千葉から「通って」までも、一つの頭数となるつもりだ。そこには多少の「情熱」を掛けたいと思う。それは、独りよがりの情熱なんかではなく、一人でも多くの人間が生きやすい世の中を築くための情熱。

それらのデモや抗議がいつかの様に、一部のカルトやアウトローによる浮世離れした自己表現の場に映ったその時は、僕はそこに脚を運ぶことはないだろう。反原発を掲げる人間のなかに、非人道的な差別意識をもった人間や、根拠のない陰謀論を盲信したり、何かフェスティバルの様に捉えてる人々も居る、しかもそういった人は少なくないのも事実。人が集まればそれだけの問題が生じる。やはり運動の内側よりも、外側に配慮されたものは理想的だ。僕自身もそうなのだが、過度なヒステリックにアレルギーがある者の多いこの国で、所謂「普通の人たち」(極端に言えば、デモとは無縁、デモを軽蔑していた人たち)に配慮された運動が出てきた。僕はそういう動きこそ支持したいし、大きくする一端を担いたい。

周りが見えなってしまうくらいの情熱は注ぎたくないし、デモや抗議行動、それ自体は目的ではなく、世の中を動かすための数ある手段のなかの一つでしかないことを、ここで改めて忘れない様にしたい。自民党が政権を取ったことで、今後、僕らの生活そのものが徐々に崖っぷちに追いやられるかもしれない。だからこそ自らの今の生活そのものを守りながら、これからは原発に限らず、現政権がこの暮らしや人権を侵そうものならその総てに抵抗する。日常で当たり前の様に政治を話し、常に政権の動きを見張り、署名や選挙も当然参加し、その上で無理のない形でデモや抗議に足を運びながら、当たり前の権利を行使していこう。僕の頭ではまだ知識も浅い。でも絶対的に「悪い」ことは何なのか、それくらいは分かる。果てしない道のりだが、その時の状況に応じた手段を選びながら、消え掛けている民主主義を絶やさない様にしようと僕は思う。

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