2013年3月29日金曜日

限界は其処

新しい暮らしにもあっという間に馴染み、遂に来る四月からの社会復帰が目前に迫った。

労働における価値観も人それぞれだとは思いますが、所詮人ひとりが出来ることなんて限られているのでは。それぞれが自分に出来ることを眈々とこなし、それを日々積み重ねていくだけでは駄目なのだろうか。勿論、不得意な場面も無慈悲に回ってくるのが仕事。そこで他人に目を向けられない(それを打破できる協力者が手を差し伸べたり、皆で解決する協調性のない)様な組織に身を置いているのなら、一層辞めた方が無難。その方が恐らく貴方も組織もお互い円滑になる。「辞める」という意思表示も一つのカウンターだし、誰しもが安心して身を置くのに相応しい場所は必ず何処かにあると思う(僕は「場所」には刑務所も各施設も病院も地獄も含めたいけど)。

仕事の愚痴やら何やら鬼の様にツイートなどネットにぶちまける人も目につく。気持ちは痛いほど分かるけど見ていて辛くなる。その人がそれを吐き出すことで気持ちの整理がつくのであれば、それを止めてくれとまでは思わない。でも正直、知ったことではない。いっそ仕事の愚痴であれば「(上司、客など)◯◯くたばれ」くらいなこと書かれた方が見ていて爽快だし、僕はそれを笑いたいし、僕自身がそうする日も今後あるかもしれない。それは昨今の人種差別デモにおける「◯◯人を殺せ」の様な陰湿な差別表現とは訳が違う。「憎み方」さえ謝らなければヘイトは健全な感情だと僕は思います。万人に伝わらなくても、怒りの音楽も、怒りの意思表示も表現としてあって良い筈だから。往々にして仕事の愚痴をネットに綴る人は、所謂善い人が多そうなので心配になる。でもそんな人たちはその分、表現でヤバい才能持ってたりするのだけど。

自分の中で人間が嫌い、怖いという想いも未だに根底に何となくある。自分が嫌われたく無いが故の立ち振る舞いもするし、変な嘘や誤魔化しも全く無いとは言い切れない。でもそんな自分がどう転んだのか対人援助の場に立つらしい。それはきっと、対象との関わりを軸にして、やたら小難しい「人間」というものをもっと知りたいのだと思う。そこに、自分自身が生きたり、表現していく為のヒントもある気がしてならない。

限界は何処だ、なんて僕には言えないのです。其処彼処に転がる限界を認めてこそ、僕は生きていけるのだろう。

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